【海外記事紹介】「『きかんしゃトーマス』の抑圧的で権威主義的な魂」(The New Yorker)

本当は怖い『きかんしゃトーマス』

 1984年にイギリスで放送が開始され、1989年にはアメリカでも放送が始まった『きかんしゃトーマス』シリーズ。日本では、1990年から『ひらけ!ポンキッキ』の枠内で放送が開始された。人形劇からCGアニメーションへと姿を変えながら現在まで続いている人気シリーズである(Wikipedia 日本語 2017/10/01アクセス)。

 この子ども向け番組のことを、全体主義的なディストピアの描写、と呼ぶのは、突飛な見解に聞こえるだろうか?

 The New Yorker の記事「『きかんしゃトーマス』の抑圧的で権威主義的な魂」(Jia Tolentino, “The Repressive, Authoritarian Soul of ‘Thomas the Tank Engine & Friends’”, The New Yorker, 2017/09/28)は、『きかんしゃトーマス』の作品世界を覆う不穏なモチーフを分析している。

懲罰を渇望する聖職者

 以下、The New Yorker 記事より抜粋。

もしあなたがシリーズを見たことがあり、そのような読解に出会ったことがなかったとすれば、あなたはこうした解釈をバカげたものと思うかもしれない。その場合、あなたは「ヘンリーの悲しい物語」("The Sad Story of Henry")の鑑賞に4分間を費やすべきである。〔……〕物語は、番組の舞台となるアイリッシュ海の架空の島ソドーに霧雨が降る日から始まる。気むずかしい機関車のヘンリーが、「雨が僕の素敵な緑の塗装と赤い縞を台無しにしてしまう」と言ってトンネルから出ることを怖がる。そこで、「ふとっちょの局長」(Fat Controller)の呼び名でも知られる鉄道会社の重役、トップハム・ハット卿が現場を訪れる(彼は、モノポリーのマスコット、リッチ・アンクル・ペニーバッグに似ているが、ほぼ確実に殺人を目撃したことのある目を持つ)。「ふとっちょの局長」は、乗客たちに命じて、ヘンリーをロープで引っ張らせるが、ヘンリーは動かない。乗客たちは反対側から彼を押そうとするが、無駄に終わる(「ふとっちょの局長」は、「医者の命令」を理由に、これらの努力への物理的参加を拒む)。そこで乗客たちはヘンリーに向かって、雨は降っていない、と教える。だが、ヘンリーは、おそらく人々がいまだに傘をさしていることに気がついて、動くことを拒む。

その日の業務が取り返しのつかないかたちで乱されたことを悟り、「ふとっちょの局長」が決断を下す。ヘンリーは処罰されなければならない、それも死ぬまでのあいだ、と。「お前のレールを取り去り、お前をいつまでもいつまでもここに留めてやる」(“We shall take away your rails, and leave you here for always and always.”)、彼はヘンリーにそう告げる。ヘンリーが苦悶に顔をゆがめ、BGMがウンパルンパまがいの憂鬱なファンファーレを鳴らすあいだに、鉄道会社の職員たちはヘンリーのまわりに、彼の顔半分だけが見えるようにレンガの牢獄を築き上げる。〔……〕話の結びとして、ナレーターは「彼はふさわしい罰を受けたと私は思うね、君もそう思うだろう?」("I think he deserved his punishment, don't you?")と語る。アメリカ版では、ヘンリーの運命が一時的なものであるかのように聞こえるようナレーションに変更が加えられた。だが、オリジナル版は YouTube で未だ利用可能で、滑稽なほどに陰気である。コメントの一つが述べるように、「ここから子どもたちが学ぶべき教訓は何なのだろうか? 『言われた通りにしろ、さもなければ死ぬまで永久に暗闇に閉じ込められるぞ』か」。

『きかんしゃトーマス』の作品世界は、英国国教会の聖職者、ウィルバート・オードリー師の独創が産み出したものであった。彼が1942年に、彼の息子・クリストファーを喜ばせるために列車たちの物語を紡ぎ始め、それらが作品集へとまとめられたのである。オードリーの「鉄道シリーズ」第一巻は1945年に刊行された。オードリーはさらに26冊の本を書き上げ、最後の本は1972年に刊行された。父親の死後、クリストファーがさらに16冊の本を書き上げた。


オードリーの著作からは、オードリーが変化を疎み、秩序を重んじ、懲罰の執行を渇望していたことが明らかである。ヘンリーは死刑宣告を受けた唯一の列車ではなかった。あるエピソードでは、経営者は、スマジャー(Smudger)という名の自慢屋の機関車に対して、「最後くらいは役に立ってもらう」と告げて、スマジャーを発電機に変え、二度と動けないようにする。また別のエピソードでは、バルギー(Bulgy)という名の二階建てバスが駅へとやってきて、革命について話す。「鉄道会社の専制から線路を解放しよう!」と叫ぶのである。彼はすぐさま「目に余るペテン師」(scarlet deceiver)とのレッテルを張られ、橋の下に閉じ込められ、鶏小屋へと変えられてしまう。繰り返されるストーリーラインは、公開の象徴的な懲罰を通じて臆病な服従へとしつけられる「厄介な貨物列車たち」にまつわるものだ。彼らのリーダー、スクラッフィー(S. C. Ruffey)は、二つの方向から引っ張られ、粉砕される。YouTube には「誰かが君をイジメていたら、そいつを殺せ、ってのが、この話の教訓かな」とのコメントが寄せられている。そしてまた別のエピソードでは、意地悪な車掌車が木っ端みじんにされるのである。

オードリーが「鉄道シリーズ」を書く頃までに、鉄道産業は蒸気からディーゼルと電気への転換を遂げていた。だが、ソドーの島では、蒸気機関が変わることのない座を占めている。カースト制は極めて堅固なのである。「ディーゼル」と呼ばれる一台の黒いディーゼル機関車が登場するが、彼は自分が蒸気機関車と同じくらい有能であることを証明しようと悪戦苦闘することになる。ディーゼルにも劣る地位にあるのが、アニー(Annie)とクララベル(Clarabel)という名の女の旅客車たちで、彼女たちは、列車の脱線事故時に手助けをしたことへの褒美としてトーマスに与えられる。〔……〕

ソドーの島では、蒸気機関車たちは、大きな職務、より多くの仕事、「ふとっちょの局長」からの承認を求めて、絶え間ない競争にさらされている。物語の中の擬人化された列車たちは、勤勉な労働者でありがちだが、Tumblr のあるスレッドは、トーマスと仲間たちは他に動機を持っている、との考えを述べる。番組は「設定上、ソドー島が、蒸気機関車が日常的に殺され、彼らの部品が売られ、修理に利用される全体主義的なディストピアにおける唯一の安全地帯となった、列車版の終末後の世界(a train post-apocalypse)を舞台としている」というのである。“frog-and-toad-are-friends”という名のTumblr ユーザーは、オードリーの本『Stepney the "Bluebell" Engine』〔訳注:邦題『がんばりやの機関車』〕を参照しながら、こう論じている。その本では、パーシーという名の緑色の列車は、「他の鉄道」がソドーに呼ばれることへの怖れを表明するのである。イギリスの国営鉄道会社、ブリティッシュ鉄道のことだ。「他の鉄道の機関車たちはもう安全じゃない。彼らの重役は冷酷だ。彼らはもう機関車のことを好きじゃないんだよ。彼らは機関車たちを冷たくてジメジメした待避線に置いて、それから……機関車たちを解体するんだ」、パーシーは泣きそうになりながら言う。(挿絵には、解体におびえる二体の機関車の姿があり、彼らの背後には、顔のあったはずの場所に身の毛のよだつような真っ黒な空白を持った車両の姿がある。) 別の Tumblr ユーザーは、「それはもしかしたら、鉄道会社の経営者たちが機関車たちにそう思い込ませたいと思っているものなのかもしれないよ」と応じている。実際、「ふとっちょの局長」は、偽情報を通じて権威主義的な支配を維持しようとしているようだ。本への序文の中で、オードリーは、ブリティッシュ鉄道が実際には蒸気機関車の保存を支援していることをはっきりとさせている。パーシーが生涯恐怖する些細な冗談、というわけである。


2009年に、番組は完全にCGI化された。2014年に、5年間トーマスの声を演じた声優が、成功している番組が「とても低い賃金」の支払いで彼を搾取してきた、と言って、役を辞めた。機関車たちも同じような革命を必要としているようだ。

大英帝国へのノスタルジー

 こちらが問題のエピソード「ヘンリーの悲しい物語」のオリジナル・ナレーション版。記事が指摘するように、展開にもまして、同意を求めてくるナレーションが不気味だ。

 日本語版「でてこいヘンリー」も YouTube で見つけることができるが、アメリカ版(“Come Out, Henry!”)に倣って、森本レオによるナレーションはやはりオリジナルの残酷な含みがぼやかされたものとなっている(だからと言って、何か救いがあるわけでもないが)。

 先行する分析の一つとして記事の中で参照されている、Slate の記事「帝国主義者のきかんしゃトーマス」(Jessica Roake, “Thomas the Imperialist Tank Engine”, Slate, 2011/07/26)は、子ども向け番組といえど、マルクス主義的、フェミニスト的、ポストモダニスト的な視点からのテキスト読解を免れ得ないことを冷ややかに告げ、『きかんしゃトーマス』と大英帝国との関係を次のように指摘している。

『トーマスとなかまたち』の保守主義は、アメリカの保守主義ではない。アメリカの「独力で身を立てろ」という神話で鍵となるのは、誰もが勤勉と独創力とで頂点に昇りつめることができる、という観念である。『トーマス』シリーズは、代わりに「白人の重荷」式の英国的な帝国主義を称揚する。我らの主人公、トーマスとその仲間たちは、弱いものいじめをする貴族であるトップハム・ハット卿のちょうど下の位置を得ようと画策し、彼の地位にまで昇ることは決して求めないのである。


人は、トップハム・ハット卿は植民地インドで時を過ごしたことがあったのでは、と感付くだろう。『トーマス』の作者、ウィルバート・オードリー師は、確実に彼の鉄道シリーズの本の中で19世紀と20世紀初頭の大英帝国を理想化していた。〔……〕ソドーの島では、大英帝国の権力と栄光を懐かしむ聖職者の手によって消去されて、イギリスにおける階級闘争の混乱や、公民権運動、植民地支配以後の政治的葛藤は起こらなかったことになっている。師は後年、鉄道と教会という彼の二つの天職について振り返り、「どちらもその絶頂期を19世紀半ばに持った。どちらも批判者たちから繰り返し激しく攻め立てられた。そしてどちらも、自分たちこそが人を彼の最終目的地へと届ける最良の手段であると確信していたのである」と述べている。

 なお、キャラクター名の確認については、きかんしゃトーマス Wikiに助けられたが、必ずしも日本語版の公式の訳語には従っていない。

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