【海外記事紹介】「ドナルド・トランプはファシストではない」(Vox)

 紹介するのは、政治学者シェリー・バーマンによる論説(Sheri Berman, "Donald Trump isn’t a fascist", Vox, 2017/01/03)。経歴を見ると、彼女は、これまで社会民主主義(social democracy)についての歴史研究書を2冊著しており、現在は『ヨーロッパにおける民主政と独裁』(Democracy and Dictatorship in Europe)という著作を準備中であるという。2冊目の著書のAmazon商品紹介には、ファリード・ザカリア、ハロルド・ジェームズ、マイケル・ウォルツァーといった日本でも訳書のある著名人による評が寄せられており、名の知れた研究者であるようだ。

 彼女の論旨は明快。「トランプは、右翼ポピュリスト(right-wing populist)であって、ファシストではない」というもの。ただし、これは、どちらならマシといった話ではなく、用語を厳密に用いていわば現象の傾向と対策をきちんと見極めよう、というのが、彼女の議論の狙いである。

ポピュリズムとファシズム、その異なる脅威
ファシズムとナチズム、とくに1930年代におけるそれらを研究する者として、私は、トランプは分布図上「ポピュリスト」の範疇に収まる、という見解に賛成である。そのことは、彼や彼の運動の一員を名乗る人々が民主政に対する脅威をもたらさないということを意味はしない。ただ、その脅威は「古典的な」ファシストがもたらすものとは異なったタイプのものとなる、ということなのだ。

 こう語るバーマンは、ファシズムを次の4つの決定的な特徴を持つものと見る。

  1. ファシストは、個人や階級よりも民族(nation)こそが政治の枢要な行為者であると信じるナショナリストで、その民族=国家(nation)の一員であるかは、宗教的、民族的(ethnic)、あるいは人種的な基礎によって定められる、と考える。
  2. ファシストは、資本主義に対する根深い不信感を持ち、国家による経済介入を提唱する。
  3. ファシストは、反自由主義・反民主主義に立つ。自由主義は、理性の強調や、多元主義の是認、世界主義といった性格ゆえに否定され、民主主義は、個々人や社会諸集団、選挙の多数派といったものを超える「より高次な」「民族的な」善の存在を認識しないがゆえに否定される。
  4. ファシストは、暴力を手段かつ目的として奉じる。暴力は既存秩序の破壊の単なる手段ではなく、それ自体が「絆」の体験と国家の「浄化」をもたらすものとして必要とされる。

 バーマンは、こうした特徴を持つファシズムが浮上した経緯を、戦間期イタリア・ドイツなどでの民主政の崩壊という短期的な関連からではなく、19世紀終わりから20世紀初頭にかけての急速な社会文化的な変化、という中長期的な視野からとらえる必要を説いている。そうして歴史的な文脈をふまえて比較するとき、今日のポピュリストは、ファシストと少なくない類似を見せるにしても、両者には決定的な違いが見られる、という。

  1. ポピュリストは、国家主権や国民的価値観といったものを賞揚するが、ファシストのように民族を「有機的な統一体」と持ち上げたりすることはほとんどなく、「人種主義的であるよりも外国人嫌い(xenophobic than racist)であることが多い」。
  2. ポピュリストは、しばしば自由市場やグローバル資本主義に批判的な姿勢を見せるが、その反発は控えめなもので、ファシストのような国家介入プランに向かうところがない。
  3. ポピュリストは、「人々」(the people)の名のもとに語って反対派を悪魔視したり少数派の権利を軽んずる点で、反多元主義・反リベラルだが、必ずしも反民主主義ではない。それどころか民主主義の改善(と彼らが喧伝するもの)を約束し、ファシストのように民主政の代替案を提起はしない。
  4. ポピュリストは、手段としても目的としても暴力を大っぴらに奉じたりはせず、暴力を必要とする政治的・経済的・社会的な革命的転換といったものを喧伝したりもしない。

 民主政との関係から見るとき、ポピュリズムとファシズムの違いは、次のようにまとめられる。

前者〔ポピュリズム〕において、危険は、民主政の諸規範と諸制度が徐々に蝕まれていくことにある。後者〔ファシズム 〕においては、民主政は、革命的で、しばしば暴力的な権力の獲得を通じて終わりを迎えたのであり、それは歴史的には、民主政がすでにまるで機能しなくなっていたがゆえに起きたことだった。

 バーマンは、ポピュリズムが欧米の民主政をどの程度蝕み得るかは未知数であるが、アメリカについていえば、トランプにすっかりなびいている与党・共和党に監視役はもはや期待しづらい状況でもあるという。

ポピュリズムが民主政の存続そのものを実際に危うくするほどまでに民主政の腐食を——たとえば、トルコやハンガリーのようなところでそうして、ポーランドでそうしつつあるように——もたらすか否かは、民主政の諸規範や諸制度が深く歴史的に根を張っており、現在の狂乱にもかかわらずなおも健在な合州国や西欧では大いに議論の余地のある問題だ。言いかえれば、今日のポピュリズムの最終的な成り行きは、ポピュリストたち自身によって左右されるとともに、民主政の諸制度、政党、エリートたちが、今日の諸問題とポピュリストたちにどのように応答するか次第なのである。
合州国において、トランプの勝利後、他の民主政の諸機関やアクターは、憲法や法の統治、そしてマイノリティの権利に対する攻撃を、用心深く監視する必要がある。
結論として、ポピュリズムは、軽率にファシズムと同一視されるべきではないし、2016年は1933年と同じ姿をしていない。だが政治において、人生における他の多くのものにおいてそうであるように、いかなるものも永遠に続きはしない。民主政が単に生き延びる(survive)だけでなく栄える(thrive)ためには、民主主義者(democrats)は——民主党員(Democrats)含めて——マシな仕事をしていく必要があるのである。

(※)訳語について。“democracy”の語を文脈に応じて「民主政」「民主主義」と訳し分けた。感覚的な判断だが、大雑把にいえば、制度・体制といったニュアンスなら前者、思想・理念といったニュアンスなら後者、といったところ。

自由な制度の断念に前向きな人々

 以上のバーマンの論旨を踏まえたうえで、思いつくことを雑感的に述べておこう。

 バーマンはこの語を使用していないが、トランプ現象の分析でよく目にするのは、「権威主義」(authoritarianism)という概念である。このブログでも以前、そういう記事の一つを紹介した。ここで「権威主義」とは、政治体制としての独裁制(dictatorship)とは区別して用いられるもので、「秩序への願望とよそ者(outsider)への恐怖によって特徴づけられる有権者の心理学的なプロファイル」などと要約される概念である(Vox)。すなわち、トランプ自身の言動よりもトランプ支持層の心性に焦点をあてることで、背景や予期される動向を特定しようというのである。これも、「ファシズム」という概念では語りにくい、トランプ現象を論じるための一つの手引きと言えよう。

 定義の問題を別としても、「ファシズム」というレンズで眺めるとき、トランプとそれをとりまく運動は、あまりにも貧相、という印象が否めない。私自身、彼を歓迎したネオ・ナチたちはさておき、ドナルド・トランプ自身を「ファシスト」だとは思ったことがない。
 ユーモア・サイトCrackedが、去年のアメリカ大統領選の前日に、「トランプの忘れられたVlogを全回見る」という興味深い(しかしまた苦痛に満ちた)企画(動画)を公開していたが、それによると、初日の投稿から「直ちに人道的な介入が必要だ」「石油を我々のものにしよう」みたいな調子が延々と続くらしい。あるいは「私は利用可能なあらゆるエネルギーに賛成だ」「風力発電の‘風車’は目障りだ」云々。この手の不機嫌で退屈な権威主義者なら、私たちの身の回りにいくらでもいるのではないだろうか? 世界で最も強力な国家の権力を握って欲しいタイプでないのは確実だが、ファシストかどうかは別の問題だ。

 ただ、私は、人々がトランプの台頭にファシズムの影を感じるのは、全く正当なことだとも考えている。そのことは、「ファシズム」を次のように理解するならば、自明であろう。

ファシズムは、第一段階のレベルでは、すべての民主主義国に、アメリカを例外とすることなく存在する。「自由な制度を断念する」こと、とりわけ不人気な集団の自由を廃棄することは、一部のアメリカ人を含む、西洋民主主義国の市民には魅力的なものとして見直されている。ファシズムが根をおろすためには、どこかの首都で必ず壮大な「行進」などおこなわなくてもよいことぐらいは、その軌跡をたどることによって理解できただろう。民族の「敵」にたいしては無法な行動でも許容するという、表面的には穏やかな判断だけで十分なのだ。
(ロバート・パクストン『ファシズムの解剖学』瀬戸岡紘訳、
桜井書店、2009年〔原著2004年〕、p.342)

 たとえば、トランプがムスリムの入国禁止やモスクの監視を叫んで拍手を受けているのを見るとき、そこから読み取るべきは、トランプ個人が差別的かどうかといったこと以上に、トランプとその支持者が「自由な制度を断念する」ことについて前向きである、という事実だろう。何もトランプだけの話ではない。ある共和党政治家は、トランプのムスリム入国禁止公約に絡んで、日系人強制収容所という「先例」を持ち出して、(共和党のクレイジー化を助長してきたはずの)Fox Newsのキャスターをも憤慨させた(BuzzFeed日本語)。
 こうしたトランプや彼の周囲の言動から見えてくるのは、自由な制度が、少なくとも自分ではない他者の自由に関しては、恣意的に制限されてよい、という感覚であろう。そして、もし恣意的に制限されるのなら、そんなものはすでに「自由な制度」ではないのである。

 バーマンによれば、トランプのようなポピュリストが民主政に対してもたらすのは、徐々に進む腐食なのであるという。そして、この腐食が進むためには、制服で行進する軍団や大仰な「世界観」などいらず、法の支配や権利の保障に例外を認めよう、というパクストンのいう「表面的には穏やかな判断」があれば十分なのであろう。

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