恐怖と狂気の物語としての『Devil Daggers』

 『Devil Daggers』というゲームには、なにか根本的に不健康なところがあると思う。というのは、クリーチャーの乱舞する地獄絵的ヴィジュアルのことでも、それを支える見事なサウンドデザインのことでもない。この不健康な印象は、とりあえず「中毒性」と言い換えてもよいのかもしれないが、ただ、そこには、やっていると、夢中になる、というより、だんだん無感覚になっていく、そんな薄気味の悪いところがあるのである。で、やりながら感覚がぼんやりしてきたときに限って、よいスコアが出たりするから、ますます不穏な感じがする(というか、「お、自己ベスト更新!」などと意識が働き始めた瞬間、あっけなく死ぬ、というのが私のもっぱらのパターン)。

 そんなことを考えていたら、英語のゲーム批評ビデオ・エッセイ・シリーズ“Errant Signal”が、ハロウィン特集の第一弾として、『Devil Daggers』を鮮やかな手つきで分析していた。全体通しておもしろいビデオだが、ここでは結論部を訳文とともに紹介しておこう(こちらで、原稿を文章として読める)。


Errant Signla - Devil Daggers

 このゲームのストーリーの多くは、メカニクスを通じて語られる。宝石を取れ、それは君に力(すなわち、武器のアップグレード)と洞察(一つ取るごとに世界が明るくなる)とを授けてくれる。だが、宝石を取れば取るほど君は人間性を失い、さらには現実の感覚を(あるいはおそらく、典型的なラヴクラフト風の流儀では、正気を)失う。
 このことは、見るに痛ましい感じの脈打つエネルギーへと徐々に変身していく君の手によって視覚的に示されるが、さらに興味深いのは、ゲームがより複雑になるにつれて、ゲームそのものが必然的にますます君の頭のなかで展開されるものとなっていくことだ。『Devil Daggers』は、共感覚とゲームとの一体感とを、禁断の秘められた知識の獲得についてのメタファーとして用いている。君がハイレベルのプレイに突入する頃には、その世界に対する洞察力の深まりは、取り散らかるピクセルへと変貌してしまうのである。
 ちなみに、この映像は僕がプレイしているものではない。最近のハイスコア記録の一つのリプレイだ。これを見て何が起こっているのか分かる? あぁ、僕にもさっぱり。でも、このプレイヤーは生き延びている。なぜなら、ゲームは、ほとんど音のヒントと空間的処理だけを頼りに彼の頭のなかでプレイされているからだ。このプレイヤーは、文字通り僕たちの目には見えないものを見ているわけで、それって、ちょっと素敵じゃない? ある種の遊び心あるメタファーとして、ね。
 〔・・・〕悪魔の短剣(Devil Dagger)に触れるとき、君は死ぬことを運命づけられていて、あとは、そこへたどりつくまでに君がどれほど怖ろしいもの(a horror)へとなり果てるか、という問題でしかないのだ。

 そういえば、Steamの日本語ユーザー・レビューの一つに「600秒とか行ってる人がいますが、たぶん妖怪か何かだと思うので気にしなくていいです」と書かれていたのを見かけたが、「妖怪」というのは、なかなか言い得て妙。
 『Devil Daggers』は、プレイヤーにこの世のものではなくなっていくことを誘いかけるゲームなのだ。そのストーリーはいたってシンプル。この世ならざる存在と闘うために、禁断の知に手を伸ばし、自ら化け物へと変貌しながら破滅していく者の物語だ。そうして、とうとう「あちら側」へ行くことのない私のような凡プレイヤーは、「あちら側」へ行ってしまった人々の悲痛な記録を「ハイスコア」というかたちで眺め、あっけにとられ、戦慄し、そして何より、それが我が身に起こっているものでないことにどこか安心もするのである。